生産者STORY

 
大潟村あきたこまち生産者協会STORY
 
米文化を守る
株式会社大潟村あきたこまち生産者協会 代表取締役社長 涌井徹さん
かつて湖だった場所を干拓して開いた日本最大の農業地帯、大潟村。ここに株式会社大潟村あきたこまち生産者協会がある。代表、涌井徹さん。涌井さんの人生は、「稲作への情熱」「米文化への情熱」に突き動かされたものだった。
 
大潟村への入植
 
大潟村への入植
涌井さんの話しを理解するには、ここ、大潟村のことも知っておく必要がある。40年前、涌井さんは生まれ故郷の新潟県十日町市から、大志を抱いて、この村に移ってきた。
ここ大潟村は、かつて、琵琶湖に次いで2番目の広さを誇る八郎潟という湖だった。昭和32年、日本の食糧を確保しようと、国の直轄事業として、干拓事業がスタートした。
事業の目的には「日本農業のモデルとなるような生産および所得水準の高い農業経営を確立し、豊かで住みよい近代的な農村社会をつくる」と書かれていた。
田んぼを作ろう! お米を作ろう!
20年の歳月と莫大な費用をかけて、約17,000haという広大な土地ができた。平成21年の秋田県の耕地面積調査を見ると、田んぼだけで130,982haとある。そこから考えると、秋田県の田んぼの10%以上が大潟村ということになる。また、東京の山手線よりもふた周りほど大きいといえば、その広さが実感できるだろう。
昭和39年に大潟村としてスタート、全国から入植者が集まって来た。大潟村にある干拓博物館に行くと、当時の苦労が手に取るようにわかる。干拓したばかりの土地は、柔らかく、雨が降ると、ずぼずぼとぬかるみにはまり、一度、トラクターがはまると、容易に抜け出すことができない。広大な田んぼにどうやって田植えをするか……。数々の試練を経て、現在がある。
涌井徹さんは、昭和45年、家族とともに、大潟村に移住してきた。大きな夢を胸に。

 
「米を作りたい」想いはひとつ
 
「米を作りたい」想いはひとつ
皮肉なことに、涌井さんが入植した昭和45年は、減反政策が始まった年でもある。そして大潟村への入植も、昭和49年を最後に募集が終了する。
日本の食糧を確保するべく始まった八郎潟の干拓事業。「田んぼを作ろう! お米を作ろう!」と、官民一体となって励んだにもかかわらず、年々、食糧事情は変化し、「米余り」の状況へと変わっていった。それが昭和40年代後半、1970年代だった。
「お米が余っているから、別の作物を作ってください。そうすれば補助金を支給しましょう」と政府。以降、生産調整として、この政策は、長い間、日本の農業政策の大きな部分を占めている。
米価を安定させるためにはしょうがないと理解できるものの、稲作への情熱を持って大潟村に移ってきた人たちの心は複雑だったであろう。生活もある。畑作に転向するにも、大潟村の土地は畑作に適していず、作っても思うように育たなかった。経費がかさみ、村内には自殺者も出るほど。暗い日々が続く。
「米を作りたい」
しかし、お米を作っても、当時、お米は自由に売買することもできなかった。
「米を作る自由」もなければ「米を売る自由」もない。
涌井さんたちは立ち上がった。実力行使。減反政策にさからった。当局との争いも絶えなかった。青田刈りされた田んぼもあった。裁判で真っ向から戦い、一つひとつ、自由を獲得していく。「米を作る自由」。村内では徐々に稲作を再開する農家が増えた。
収穫したお米を販売しようと、独自の販売ルートを開拓し始める。「自由米」。それを世間では「ヤミ米」と言って非難した。村の出口では、お米を運搬するトラックをチェックしようと検問が行なわれるという話しが持ち上がった。涌井さんたちには「ヤミ米派」というレッテルが貼られた。メディアの取材にも応え、自分たちの正当性を訴えた。
だんだんと理解の輪が広がり、「涌井さんのお米がほしい」という注文も入るようになっていった。
そんな状況のなか、株式会社大潟村あきたこまち生産者協会が生まれた。個人向けの産直ビジネスを立ち上げる。
「稲作への情熱」に突き動かされた涌井さんのチャレンジは続く。