金鋒先生一代記

 
内モンゴルと日本の懸け橋
 
内モンゴルと日本の懸け橋
金先生のお父さまも、1930年代、日本に留学していました。
しかし、日中戦争がはじまり、中国から来た留学生だということで数多くの虐めを受け、やむなく帰国。長い戦争が終わり、平和な時代に入って、再度、日本へ。
日本のいろいろなことを中国に紹介する新聞記者として活躍しました。
文化大革命で「スパイだ!」と嫌疑をかけられたのは、お父さまが日本で新聞記者として活躍していたのが理由です。
その嫌疑も晴れた後、お父さまは内モンゴルのフフホト政府に勤務。
日本のことをよく知っている役人として、数多くの留学生を日本に送り込むアドバイザになりました。
留学にはお金がかかります。
そのため、裕福な家庭の子弟に限られてしまうのですが、金先生のお父さまは、 「留学生には日本の技術とノウハウを内モンゴルに持ち帰って役立ててほしい。
それを実現するのは、むしろ貧しい家の子どもたちだ」と。
留学を志す優秀な学生が日本に行けるよう、いろいろなところに働きかけ、奨学金を受けられるように奔走しました。
その根底には、日本と中国は、お互い、理解を深めて、よりよい交流をしていくべきだという強い信念がありました。
金先生のお父さまにお世話になった留学生が、現在、様々なところで活躍しています。もちろん、金先生もそのひとりです。